翼を広げ、上空からミレイナの家を見下ろす。
先ほど感じた微かな邪念は今もそこに漂っていた。
だが、それは本来、この人間界ならばあまり気にする程のものではない。
‘人’の感情は不安定で、プラスにもマイナスにも揺れている。
そしてその感情も現れては消えていくものだ。
「……」
ティエリアは眉を顰める。
散らずに、この場に漂っている想念。
その負の感情を引き寄せ、留めているものがここにあるということか。
もしそうなら、この邪念だけを浄化しても意味はない。
新たに負の想念を引き寄せてしまう。
その‘もの’を見つけて浄化しなければならない。
あの母親に憑いていた黒い影の残留から考えても‘それ’は彼女に関することであり、その近くにあるはずだった。
けれど。
―……―
ティエリアは手をかざし、目の前に漂う邪念を浄化した。
「リンダ…」
「ママ…」
夕食を終えたミレイナとクロエは、ベッドに横になっているリンダの傍にいた。
心配そうに覗き込み、声をかける。
うっすらと、リンダが目を開けた。
「ママ!」
「リンダ!」
「……ミレイナ…クロエも…」
リンダは半身を起そうとするが、クロエに制される。
「無理しちゃだめよ」
「来て、くれてたの…」
「ママ、クロエおばさまにシチュー作ってもらったです。すっごく美味しかったのです」
「そう…よかったわね。ありがとう、クロエ…」
「…あなたも、少しでもいいから食べてね」
「ええ…」
「ママ…」
リンダは傍に寄ったミレイナの頭をそっと撫でると、また瞼を閉じた。
「――リンダ、みんな、チーフのあなたが戻ってくるのを待ってるわよ」
その声が聞こえたのか、弱々しくではあったが、リンダは微笑を浮かべた。
「ミレイナ、今日はこれで帰るわね」
「はい」
立ち去ろうとして、クロエはふと、リンダの枕元にあるものに目を留めた。
そして、唇の端を上げると――小さく微笑んだ。
その様子を少し離れた大きな街路樹の枝に腰かけて見ていたティエリアは、クロエの笑顔の中に違和感を覚えた。
微笑む前のあの一瞬。彼女に昏い感情が浮かんだのだ。
おそらく本人は気付いてはいない。
彼女の中にある消しきれなかった負の感情。嫉妬や不満などだ。
クロエとリンダは職場の同期だ。
ここに降りる前に読んだ資料にあった。
ティエリアは飛び立ち、寝室の窓辺に寄って、リンダの枕元にあるものに意識を向ける。
大事そうに置いてあるのは、ダークブルーのアンティーク調のペンダント。
中には細やかな薔薇の模様が施されている。
クロエがあのペンダントを見たときの表情――
それを考えれば、おそらくはこれが媒体。
もう既に日は落ちている。
ミレイナが眠るまで待つか。
―いや、今夜は新月だったな…―
新月の夜は負の力は暴走しやすく、深夜になるのは危険だった。
ふわりとティエリアは窓の中、寝室へと移動しベッドの足元近くに降り立つ。
ミレイナは一階のキッチンにいた。
できれば彼女がここに戻ってくる前に済ませたい。
―それに…―
ティエリアは一度視線を落としたが、直ぐにリンダの方へ目を向けて歩み寄った。
枕元にあるペンダントにそっと手を伸ばす。
まずは媒体であろうこれをリンダから離さなければならない。
ちりと、指先に痛みが走る。
ただの想念ではなく、邪念を集めているものだ。
天使である身ではわずかな負、いや、魔に通ずるものに触れるのはかなりの負担になる。
だがこの程度なら、耐えられる。
意識を集中し、再びペンダントに手を伸ばした。
ガッと突然、その手を掴まれる。
「!?」
眠っていたはずのリンダがティエリアの手首を掴んだのだ。
とても女性のものとは思えない強い力だ。
「…くっ…」
『ソレニ触レルナ』
ゆらりと向けられた視線は闇を映し、声も冷たく低いそれは明らかにリンダのものではなかった。
2009/11/08