コーヒーの良い香りがして、リビングに入ってきたロックオンの手にはマグカップが二つ。
その一つをティエリアの前のローテーブルに置く。
「ほい」
「ありがとうございます」
紅い瞳はその手の甲にあるものに気付く。
ロックオンはカップを持ったままティエリアの左隣に座った。
「で、どうしたんだ、急用か?」
ティエリアが口を開くより先に彼が訊いてきた。
「別に、用というわけでは…少し時間があったので…」
薄く頬を朱くして、顔を背ける恋人にロックオンの口元も綻んだ。
「ロックオン」
「ん?」
「その手の傷はどうしたのですか?」
「え、ああ、…ちょっとした擦り傷だ」
ばつが悪そうにロックオンは笑った。
「―――」
普段あまり外すことのない皮手袋を外しての傷。
それにあれは擦り傷というよりも引っ掻かれたようなものだ。それも一つではない。
「たいしたことねぇんだから、心配すんなって、」
考え込んでいる様子のティエリアにロックオンが言う。
「ティエリア」
みゃあ、と突然鳴き声がした。
――えっ?――
ロックオンは幾分顔を引き攣らせ、ティエリアは驚いて声のした方を振り返る。
いったい何処から来たのか、いや今まで何処にいたのか、姿の見えなかったその‘猫’は二人の座るソファの真後ろに、前足をそろえ澄ました顔で立っていた。
「ロックオン?」
「いや、これは…その…」
口籠るロックオンの膝の上に、その猫は当然のように丸くなる。
じーっと視線だけで問い詰められる。
こうなるともうお手上げで。仕方なくことの経緯を話した。
「まったく――」
一通り聞くと、ティエリアは呆れたように溜息を吐く。
「どうするつもりなんですか?こんなことをして」
「そうなんだよなー」
他人事のような言い方に、紅い瞳に睨まれる。
「あなたはっ、マイスターとしての立場を――」
「分かってるって。発つときには何とかするからさ」
そうでなければ助けた意味もない。
「手の傷はこの猫にですか」
「まあ、な」
手の甲をさすりながら申し訳なさそうに笑う。
その様が目に見えるようだとティエリアは思った。気にかけて、構いすぎて引っ掻かれたのだろう。
らしいと言えば、この人らしいのだが。
「そんなに怒るなよ、ティエリア」
「お――」
怒ってません、呆れているだけですと言おうとした言葉は、みゃあと鳴き声に遮られた。
「……」
丸くなっていた猫はロックオンを見上げている。
ティエリアは眉根を寄せ、二、三度瞬きをし、猫を凝視している。
「あ、あのー、えっと…」
ロックオンの背中には冷たいものが流れている。
「…ティエリア…?」
みゃう。
ティエリアの呼びかけにしっかりと返事をする、てぃえりあ。
「――…ロックオン」
ティエリアの声のトーンが低い。
「は、はい」
「説明してもらいましょうか」
向けられた視線は氷のごとく。室温が五度は下がったとロックオンは感じた。
「どういうつもりで、あなたはこんなっ」
人の名前を付けるなんて。
「いや、違うっ不可抗力だ、不可抗力っ」
「不可抗力?」
「どんな名前がいいかな〜といろいろと考えてて、つい、おまえの名前を、その…な」
「猫の名前を考えてて、どうして僕の名前がでてくるのですかっ?」
「そ、そりゃあ…」
頭をフル回転させて言い訳を考える。
「いつもおまえのことを想っているから...」
まさか猫から連想したなんて、口が裂けても言えはしない。
もし知られたら、一、二発殴られるだけではすまないだろう。
「……」
ティエリアが言葉に詰まった。冷たい視線も和らいでいる。
ごめん、ティエリア。嘘だけど嘘じゃない。
俺はいつもおまえを想っている――
ティエリアは小さく溜息を吐く。
ごまかされたような感じは否めないが、これ以上言うのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
今思えば、自分が来たときのロックオンの慌てようはこのせいだったのだ。
ふと見ると、件の猫はいつの間にやら、ソファの上に移動して眠っている。



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