想いの兆し
「ティーエリーアちゃん」
語尾に音符でもついているような声。
何も聞こえなかったことにして、歩を進めていく。
「ティ〜エリ〜アちゃん―ティエちゃん」
しつこく、さらに妙な呼び方に変わった後ろからついて来るそれに、ティエリアは足を止めた。
「訊きますが、」
「ん?」
「それはいったい、誰を呼んでいるのですか?ロックオン・ストラトス」
後ろからついて来る声の主に、棘のある言葉だけを向ける。
「もちろん、おまえ」
見なくても分かる。
今、この男はあの妙に嬉しそうな表情をしているはずだ。
きっ、と睨むように振り返れば、案の定。
おまけに全然表情も変えはしない。
もともとこの男はコミュニケーション好きとでもいうのか、他のクルー達ともよく話をしていた。
それが何故か最近、自分に向けられることが増えているような気がする。
そう、あの時からだ。
十日前のオフに、ティエリアは地上に降りた。
めったにないことなのだが、降りてみようと思ったからだ。
それに同じくオフだったロックオンが一緒に降りることになった。
『途中まで、一緒に歩いてもいいか?』
地上に着いてから彼はそう言った。
断る理由も特になかったので、ティエリアは了承した。
時折、短い会話―といえるかどうか分からないほどのもの―をしながら雑踏の中を歩いた。
どこへ行くのか訊きたい気もしたが、言わなかった。
彼も訊かなかった。
三十分くらいそうして。
じゃ、ここでと、ロックオンは違う道へと去っていった。
その後ろ姿から、視線を前へと移す。
「……」
ティエリアはほんのわずか、何かが足らなくなったような感じを覚えた。
一人で歩くと、人混みが鬱陶しいと改めて思った。
それには、たまに向けられてくる不快な視線のせいもあった。
理由は分からないが、絡みつくような不躾なものだ。
嫌悪することすら無駄に思えるそれを、ティエリアは無視することにして、人通りの少ない場所へと移動した。
一筋ほど過ぎたところに公園を見つけ中に入った。
その奥に淡いピンク色が見えた。
道沿いに植えられている数本の桜の木だった。
今が満開の頃。
伸ばした枝のすべてに薄紅の花が咲き誇る。
通りがかった人々もその花を見上げ、あるいは立ち止まり感嘆しているようだった。
ティエリアもその花が見える木陰のベンチに腰を下ろした。
本物を見るのは初めてだったからだ。
それにここに入ってからは不快な視線もなく、幾らか安堵もしていた。
柔らかな風が吹いて、薄紅が揺れる。
さわと、刻(とき)が淡く染まる。
ふと、足に何かが触れた。
見れば、子猫が足首の辺りに体をすり寄せているのだった。
まだベンチの上までジャンプする力はないのだろう、拙い仕草でよじ登ろうとしている。
「――」
ティエリアは身をかがめ、子猫を抱き上げた。
ふにゃんとした温かな感触。
常では触れることのないものだった。
「みゃう…」
真っ白で青い目をした子猫。
首に赤いリボンがついている。
誰かの飼い猫なのだろう。
「みィ、みィ…」
心細げに鳴く子猫を胸元に抱き、頭を撫でてやると安心したように目を細めた。
「みゃう」
とまた鳴いて、子猫はティエリアにしがみついた。
薄い布地を通して爪が当たり、わずかに痛みを感じた。
けれど、必死にしがみついてくる小さな生き物に不思議と嫌悪はなく、手で支えるように抱いていた。
ふっと、ティエリアは微笑んでいた。
それはティエリア自身、気付いてはいないものだった。
「パール…パール、どこなのー?」
聞こえた声に視線を上げると、五、六歳くらいの女の子が言いながら、辺りをきょろきょろしていた。
その子はティエリアに気付くと、こちらに走ってきた。
「パール!」
どうやら子猫はこの女の子の飼い猫らしかった。
女の子は嬉しそうに走ってきたが、ティエリアの前まで来ると、困ったような表情になって、子猫を抱いている相手を見つめた。
「この猫は君の?」
黙ったままの女の子にティエリアは優しく訊いた。
それは、いつも彼と一緒にいる者が見たら、信じられないと言うほど穏やかなものだった。
女の子は頷いて。
「パールっていうの」
「そう」
ティエリアは子猫を胸元から離し、女の子に渡した。
「ありがとう!」
女の子は子猫を受け取ると、ちょこんと、お辞儀をして嬉しそうに走っていった。
その先には母親らしき女性がいて、女の子から話を聞いたのだろう、こちらを見て頭を下げた。
ティエリアも会釈を返した。
「――」
今まであった温かなものを確かめるように、ティエリアは手を胸元に置いた。
「―いいとこあるじゃないか」
不意にした声に振り返れば、木に寄りかかってロックオンが立っていた。